札幌のヨガスタジオ ミガクのヨガ納め
スタジオの観葉植物の葉っぱに埃が溜まっていたので、フーッと吹き飛ばそうとしたのに全然飛ばないなと思ったら、マウスガードつけたままでした。もう馴染みすぎて付けてることすら忘れます。
今年は、今日のクラスが年内最後でした。例年なら大晦日までやるんですけど今年はね。まぁ閑散としてますから。
今朝の朝ヨガは賑わいを見せていました。珍しく小学生yoginiの参加もあり、わいわいと盛り上がりながらみなさんのヨガ納め。帰り際のある人の言葉を聞いたとき、ちょっと胸熱でした。ヨガをできる場を持っていて本当に良かったと思えた瞬間です。
僕は最近思うんです。「ヨガクラスとは良き物語である」と。すべてのヨガクラスを担当する講師たちは、例外なく、ヨガで目の前にいる人たちの何かを良くしたい、と思っているんです。
映画や小説といった物語と同じように、好き嫌いは当然あります。合う合わないもあるでしょう。もちろんクラスの成熟度も違いますので、あっちよりこっちの方がいい、もあります。だけど多分、そこには悪意は全くありません。悪いようにはしないですよ、と言えます。
身近な人に「ポーズの効果をもっと言ったほうがいい」と言われたことがあります。そういうのを求める人がいることは知っています。求める気持ちもとてもよく分かります。効果を謳うことを悪いことだとは思いません(カルマヨガではないと思うけど)。だけど僕は言いたくないんです。
それは、映画を観ながら、画面の横に「この俳優の微妙な表情はちょっとした憂いを含んいます」とか「ここは感動して欲しい場面です」とかいちいち説明してくるようなものだと思うからです。ポーズで、何を感じるべきであるか、どう感じるべきであるか、何を期待してやるべきか、などの「べき」なんて要らないです。映画を観て、小説を読んで、どの場面で何をどう感じるかはその人の自由です。限定されたらそれ以上の広がりがないじゃないか。その日、そのとき、その人の心身とその状態で、感じられるものを自由に受け取ったらいいと思う。同じポーズでも効果なんて千差万別でしょ。安心して、ただヨガをしたらいいです。それは良き物語だから、悪いようにはしません。
ただ、言葉の意味を勘違いしていたら、台詞の意味をまったく違って受け取ってしまうし、それがその人を無駄に傷つけることもあります。だから、そうならないように、僕は体の使い方を丁寧に伝えます。聞いてもすぐにはできないこともあるので、終わってからどこかがちょっと痛む、ということもあるでしょう。それには時間が必要です。自分の体にその使い方を落とし込むための時間(…と少しの努力)が。
今年は望ましくない色んなことがあり過ぎて、ガツーンとやられることが多かった年でした。何とかスタジオを閉めることなく今年のクラスをやり終えられたのも、スタジオに来てくれたみなさまと、このブログを読んでくださった方々のお陰です。ほんとうにありがとうございます。
あのスタジオでヨガクラスをすると、僕は救われる気がます。ヨガがあってくれて良かったし、ヨガをしに来てくれる人が集えるあの場があってくれて、本当に救われています。ありがたいです。
この1年を経て分かったことがあります。今日もありました。来年からはそれを活かして良き物語を作り、スタジオを訪れてくれる人の心身の健康に貢献できたらいいなと思っています。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。
良いお年をお迎えください。