食事の話

2021/02/22 ブログ
散歩行きたくないアピールの顔

ヨガとほとんど関係ないけど、まったく関係ないわけではない話。

 

 

今日のマイソール前の時間にいろいろ話していたんです。その中で食べるペースの話になりました。

 

僕は食べるのが早いです。男の中では普通だと思いますが、女性と比べると早いです。今までに何度か「もっと味わって食べろ」と窘められました。なので、女性とご飯を食べるときは、なるべくゆっくり食べるように心がけてきたつもりです。だけど、一人で食べるときや、早く食べることを気にしないでいてくれる人と一緒だと、やっぱり早いのです。

 

このことについて、昨晩布団の中で考えていました。そこで分かったことがあるんです。結論から言うと『幸福感』の違いです。ゆっくりゆっくり味わいながら食べることに幸福を感じる人もいれば、僕みたいに「美味い美味い」とばくばく食べることに幸福を感じる人もいるのだということ(ただ単に早く食べられないとか、せっかちということもあるでしょうが)。

 

僕はゆっくり食べる人に合わせてゆっくり味わって食べるより、ばくばく食べる方が美味しいし、美味しいものを食べた幸せを感じるんです。もちろん、一緒に食事する時間を楽しむということで言えば、同じようなペースで食べた方が幸福感は高いでしょう。だけど、美味しいものを美味しく食べるという点で言えば、自分のペースで食べた方が断然美味いし幸せです。

 

書いていて思ったのですが、これって登山と似てますね。会話を楽しみたい人と登るならペースがゆっくりの人に合わせた方がいいですが、単純に登山するという点で言えば、自分のペースで登る方がずっと楽だし、心地よいのと同じだ。

 

あー、そうか。これはつまり、食事(登山)するという手段を通してコミュニケーションすることを目的とするのか、美味いものを美味しく食べることを目的とするのか、の手段と目的の違いでもあるのですね。

 

じゃあ使い分ければいいということでしょうか。なんか書いてて考えがまとまってきたぞ。

 

 

僕は食べるのが早いですが、ゆっくり食べる人に、もっと早く食べればいいのに、と思ったことは一度もありません。登山でも同じです。だけど、ゆっくり食べる人は早く食べる人に、ゆっくり食べるように促したりしますよね。その行為は、美味しいものを美味しく食べたい人の幸せを奪っているかもしれません。だけど、ゆっくり食べている人を置き去りにして、自分の美味しく食べられるペースで食べる行為は、食事を手段としてコミュニケーション取りたい人の幸福感を損なっているかもしれない。

 

 

これ、アシュタンガヨガのクラスをする上で同じことを思うんです(ほうら、やっとヨガの話になってきましたよ)。アーサナを目的とするのか、手段とするのかで、やり方が割と変わります。僕にとっては手段なんだけど目的でもあります。だけど、ヨガを手段と捉える人は一般的にはあまり多くないように思うんです。

 

アーサナができるようになりたい、美しくできるようになりたいと思って(それを目的として)いる人に、アシュタンガヨガを手段として捉えた伝え方をしても、その人は多分ハッピーじゃないですよね。逆もまた然り。

 

ハッピーかどうかなんて関係ない!ヨガとはそういうものだ!なんて正論吐いてもしょうがないと思うんです(思うようになりました)。入りは目的だったとしても、続けているうちに手段にもなり得るかもしれない。だったら無理強いしないで、ハッピーでいられるやり方でいいんじゃないかな、と思う今日この頃です。

 

 

この食事論を読んで、「あ、こいつ全然ジェントルじゃない。モテない奴だな」と思われたあなた!

 

大正解っ!!

 

 

 

着地点が見えなくなってきたので、見極めが大事ってことで締めていいすかね?