文化の違い

2021/02/24 ブログ
札幌のヨガスタジオミガク

20代の前半にワーキングホリデービザでオーストラリアに1年間滞在しました(留学ではなくて、ただの遊びの滞在です)。

 

電車に乗っていたら、近くに座っていた男性が、別の知り合いじゃない男の人に向かって

 

「そのスニーカーいいね。どこで買ったの?」

 

って、いきなり聞いたんです。聞かれた男の人も普通に答えていました。それを見て、「あー、こういう文化いいなぁ」と感じたのが忘れられません。

 

 

 

文化の違いということで紹介したいのが、ジャレド・ダイアモンドさんが糸井重里さんとの対談で話していたこと。ちょっと長いですけど、興味あったら読んでください。

 

 

 

「対立」にどう対処するかが、ニューギニアなどの伝統的な社会と、日本やアメリカといった先進国のあり方ではまったく違うんですね。

 

多くの伝統的社会において、「対立」の相手は知り合いです。社会の規模が小さく、一生を数百人以下のコミュニティで暮らすわけですから、そのときの「対立」の相手というのはたいてい、もともと知っていたり、誰かと親しかったり、何かの関わりがあったり、という存在なんですね。そうした社会で「対立」が起きてしまったとき大切なことは、「関係をどう修復するか」なんです。

 

一方、日本やアメリカなどの先進国の社会で「対立」が起こったときに大切なのは、「どちらが正しいか」です。 

 

日本やアメリカで交通事故があったら、事故の相手というのは基本的に初めて会った、知らない相手です。その後の関係も、まずありません。だから相手が怒ろうが泣こうが関係ないわけで、「どちらが正しいか」の考えのもとに「対立」を解消しようとします。警察や裁判所の考え方も「どちらが正しいか、間違ってるか」の上に立脚していますよね。

 

本で紹介した事例なのですが、私にはニューギニアで事業を営んでいる友人がいるんです。

あるとき、その友人の会社の社員が10歳の男の子を車でひいてしまった。物陰からその子が飛び出してきて、ブレーキは引いたんだけれども、気づいたときには遅くって、結局男の子は亡くなってしまった。 

 

アメリカであれば、すぐその友人はまず事業主として弁護士を雇い、「どうやって社員を弁護するか」という考えに集中していたでしょう。亡くなった子供の遺族との関係づくりなど、微塵も考えないと思います。ところが、この事故が起きたのはニューギニアです。全く対応が違いました。

 

まず事故の翌日に、亡くなった子供のお父さんが

友人の会社を訪ねてきたのだそうです。そのとき友人は「殺される!」と思ったそうなんですが、そのお父さんがやってきた理由は、こういうことでした。

 

「おたくの社員が事故を起こし、うちの子供が亡くなりました。わざとやったことでないのは、わかります。けれど現在、私たち家族は非常につらい気持ちの中で暮らしています。ですから4日後に子供のことを偲んで昼食会を開こうと思っています。そこへ、来ていただけないでしょうか。

また、その昼食会の食べ物を出していただけないでしょうか」

 

そういう話だったんです。

それからは、あいだに経験豊かな人が入って、どんな食べ物を持っていくべきかといった話がなされ、なんと事故が起こってわずか5日後に、その社長である私の友人や、幹部の社員、それから亡くなったお子さんのご両親や親戚が同じ食卓を囲んで、お昼を共にしたそうなんです。

これはアメリカだと考えられない話です。

 

昼食会では、ひとりずつが弔辞のようにその子のことを想ってスピーチをしました。たとえばその子のお父さんが亡くなった子の写真を持って

 

「死んでしまって、本当につらい。さびしい。また会いたい」

 

といった話をしたりとか。その場にいる人たちが

亡くなった子供のことを想ってみんな、泣いているわけです。 

 

そして、私の友人にもスピーチの番がまわってきたそうです。彼はもう、あとで振り返ってもあんな辛いスピーチをしたことはなかったと言っていましたけれど、絞り出すように

 

「‥‥自分にも子供がいます」

と、はじめたのだそうです。そして、

 

「だから、突然に子供を失う気持ちというのは、ほんの多少ですけれども、私にも察することができます。

今日はこうして食べ物を持ってきましたが、こんなものはお子さんの命に比べたら、ほとんど価値のないものだと思います」

 

と、そんなスピーチをしたそうなんです。

言ってみればこれは、感情の処理をとても重視した「対立」の解消方法であるわけです。その場でお互いに泣くことによって、互いの痛みが共有できますし、亡くなった子供の家族や親戚たちからしても、社長である私の友人が「ことが無事済んでよかった」みたいに軽々しく思っているわけではないとわかります。また、その社長や、事故を起こした社員自身も「ひどいことをした」という心の傷を過度に背負うことなく暮らしていけます。

 

こんなふうに、伝統的社会では「対立」が起こったときに「お互いの感情をどう処理し、どう落ち着かせるか」に重きをおきます。

 

ですが、先進国においては「どちらが正しいか、間違ってるか」が何よりの争点で、それぞれの感情の処理にはまったく思いをめぐらせないんですよね。

 

 

 

 

 

ヨガではよく「繋がる」という言葉を割と気軽に使いがちですが、文化が違うので当然なんだけれど、ニューギニアの人たちの(このケースの)ような繋がり方はできないですよね、きっと。