業の肯定

2021/09/23 ブログ
モエレ山

昨日、1回目のアレをしてきました。最後に注射をしたのがいつだったのか、何だったのかも思い出せないくらい久しぶりだったので、若干の緊張感がありました。

先生に「今日の体調は大丈夫ですか?」と聞かれて、「はい」と答えるそのたった一言が、妙に上擦っていたのが何よりの証拠です。恥ずかしい。

 

 

 

立川談志さんは、「落語とは人間の業の肯定を前提とする一人芸である」と著書で書いています。『業』とは何かというと、「善いも悪いも含めた人間の行いのこと」と思います(ヨガではカルマといいますね)。善いも悪いも肯定するのが落語である、と。僕は落語のことをほとんど知らないですが、これを知って、落語っていいなと思いました。

 

 

先日、クラス前に話していたとき、一人の方が「(ヨガの)先生って、支配したがる人が結構いますよね」と仰っていました。僕は「あー、確かに」と思ったんです。そういう先生が実際にいた、というよりも、僕自身がそういうところがあるな、と思ったからです。

 

例えば、アシュタンガヨガとはこういうものだよ、とか、こういうことを大事にして実践するのがいいんだよ、とか、このアーサナでの身体の使い方はこうだよ、など。僕の知っている限りで、「アシュタンガヨガの正しさ」だとか「身体の使い方の正しさ」を伝えたとします。だけど、よく書いているように、ヨガをする目的は人それぞれなので、僕の言う「正しさ」はその人の優先順位の上位に来ないことがあります。または、その人自身の考える「正しさ」の方を優先することもあります。すると、僕の言う「正しさ」とは違う取り組みかたをするんですね。それを見た僕は「いや、違うって。そうじゃなくて、こうするんだよ」と正そうとする。実際に正そうとしなかったとしても、僕の心中は穏やかではないんです。そういうことが、ちょいちょいありました。以前は。

 

僕のこの行為は、支配しようとしてるつもりはないけど、受け取る方からしたら支配だなとある時ふと思ったんです。最近よく聞く「正しさの押し売り」みたいなものですね。立場が対等であれば押し売りで済みますけど、先生と呼ばれるような側の人がこれをやると、パワハラだったり支配になるのかなぁと思います。

 

自分のこういうところに気づいてからは、ただ伝えるだけに留めようと決めました。行為の結果に執着しないという意味では、カルマヨガですね。

 

こんなダメなヨガ講師が落語に登場しても、「しょうがないねぇ」なんつって、肯定してくれるのでしょうか。だとしたら、前向きにがんばれます。

 

と、ここまで書いて思い出しました。「人間の業の肯定」をしていた人を、前にもブログで書きましたね。これです。

 

「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。」

 

お分かりになりますか?タモリさんが赤塚不二夫さんの葬儀で述べた弔辞の一部です。

 

 

 

「正しさ」という重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、時間は前後関係を絶ちはなたれたら、きっとその人のするヨガは素晴らしいと思います。僕はそういうものを目指している気がしています。