直線と曲線
1週間前の自分よ、何でそうしたんや?
何か考えがあって、今月のマイソールはクラス開始15分前から入室できますよ、としたはずですが、8月初日のマイソールから既に「これ何の意味あるん?」と不思議に思いました。意味ないので先月同様、スケジュールに記載している時刻にドアオープンです。ホームページも書き直しました。
紛らわしくてすみません。
「また今度書きます」とブログで書いたときに限って、ほぼそれを書いたことがない札幌市東区のヨガスタジオミガク小林です。どうも、こんばんは。時間が経つとどうでもよくなってくる性なんでしょうね。
なので、時間を置かずに書きますよ。前回のブログで「セカンドレッドクラスのDVDを観たことが転機になった」と書きました。転機になったというのは若干大袈裟ではありますが、大きな発見ではありました。
そのレッドクラスでは前列に正式指導者の圭吾さんと恭平さん(と他の3人)、後列の僕の隣に英樹さんというマットの敷き方でした。英樹さんは撮影者から見て僕の奥側に位置していたので、あまりちゃんと映っていないのですが、圭吾さんと恭平さんはバッチリ見えます。
改めて自分のアーサナとお二人のアーサナを見比べてみると、結構違ったんです。もう少し言うと、後列には撮影者から見て、matsukoさん、ゆみこさん、小林の順で並んでいて、この3人のアーサナは似ているんです。なので、この札幌ローカルの3人と前列のお二人が違うアーサナのやり方でした。
僕はアシュタンガヨガ以前は、アイアンガーヨガの表面的なところまでは学んでいました。なので、アーサナのやり方が完全にそっち寄りのアライメントだったのです。緻密で理にかなっている気がして、それが好きだった。後列のお二人が何を学んでそのやり方に至ったのかは知りませんが、その当時の僕ら3人は似ていたんです。
だけど、圭吾さんと恭平さんは違った(すべてのアーサナで、というわけではありませんが)。明らかに違ったんです。見比べてみて初めて気づきました。「ああ、こういうことか」と。僕は何でも試したくなるので、翌日から真似て練習しました。その形に自分の体を当てはめてみると分かるものです、その意味が。「なるほどね」と納得して以来、僕はずっとそのやり方で練習を続けています。
断っておきたいのは、そのやり方が正しいと思っているわけではないということ。「アシュタンガ的かもね」くらいには思いますが、それじゃなきゃダメとは思ってない。
少しだけ具体的に、そして分かりやすくするために大袈裟に書くと、「ハムストリング教信者」か「バンダ教信者」かの違いと表現できるかもしれない。とにかくハムストリングを伸ばして股関節でアーサナをおこない、アライメントは直線的。対して、ウディヤナを引き込んでいるような、お腹でアーサナをおこない、アライメントは部分的に曲線的。
どちらが正しいではなくて、ただの違い(と今の僕は思います)。直線的か一部曲線的か、はたまたその中間のどこかか。
今の僕はそこにあまり価値を置かなくなったので、「あなたのやりたいやり方でどうぞ」または「あなたの体でできるやり方でどうぞ」といった感じです。マイソールで人の体をじっくり見るようになって、向き不向きがあることを知りました。特定のやり方を強制するのは無理があります。逆に言うと、自分の体に合わないやり方やアーサナを望むのは、自分自身に無理を強いることになります。そのことに気づき、それを受け入れられるか否かが、自分を縛り付ける鎖みたいなものから自由になれるかどうかに影響してくるように思います。
書いているうちに最初のテーマとずれてきましたが、諦めるって悪いことではないと思います。今の日本語の「諦める」は、自分の願望が叶わずにそれへの思いを断ち切る、といった使われ方ですが、その語源は「明らむ=明らかにする」ということらしいですよ。自分の心身を知り、その特性を明らかにし、このやり方・アーサナは自分には無理があると諦めるのは悪くない。そのうえで次へと向かうのは前向きな行為だと思います。また違うアーサナを練習しているうちに、体に今までなかった変化が起こり、以前はできなかったことにも可能性が生まれることだってあり得る。
僕は今のところそういう考え方なので、できないアーサナに何年も止まらせるようなやり方は採用していません。賛否はあると思いますが、ヨガスタジオミガクはそんなところだと思ってください。
また長くなってしまいました。今日はこの辺で。ご機嫌よう。