欲張りヤロウ
面倒臭くて見て見ぬふりしてたんですけど、今朝やっと重い腰を上げてスタジオ周りの草むしりをしました。雨のあとの土からは抜きやすかったです。
完全に土だけにするのは好みではないので、背の高くない草は適当に残しました。手抜きではないです。いや、ほんとに。
お恥ずかしい話ですが、もう何年も腰の調子が絶好調という日がありません。ある特定の体勢や動作で痛みが出ます。それが続くわけではないので、それほど大ごとではないんですけどね。ただ、昔みたいに「いきなりアーサナをやって見せる」ということができない場合もあります。
自分がどういうアーサナで痛みが出るかをある程度把握しているのに、それでも痛みを発生させるのは、ただただ強欲だからです。痛みのなかった頃の体でやれていたのと同じものを求めるから。
練習のときに、「今日はここに不調があるので、様子を見ながらやります」といって、丁寧に練習している姿を見ると、「この人は僕よりずっと良い練習ができているな」と、その人の精神性の高さに感服させられます。
以前にも書いたヨガの教えの1つ、ヤマ(禁戒)の一つにアパリグラハというものがあります。不貪(ふとん)と訳されることが多いです。そのままですが、貪るなってことです。似たようなことですが、ニヤマ(勧戒)の一つにサントーシャ(知足:足るを知る)があります。
これらはヨガのルールではありません。やっちゃダメとか、やらなきゃダメというものではありません。こういうことすると、心を穏やかに過ごすことができなくなるから、やめといた方がいいよ(または、こういうことができると、心穏やかに過ごせるようになるから、やれるようになるといいよ) 、という教えです。
僕は明らかにそれらの教えに反してます。反したことをやっておきながら、痛みがなかった頃のように動けないことにガッカリしたり、欲張った結果訪れた痛みに悩まされたり。まったく心穏やかになってないですよね。ここら辺も自分の精神性の低さなんだな、と自覚しています。
だけど、この痛みは必ずしも悪いものばかりをもたらすわけではありません。それがあることで、ずっと試行錯誤ができています。今日はこうしてみよう、というのを色々試せている。良い感じのものもあるし、上手くいかなかったのもあります。少し前のブログで諦めるのも悪くないと書きましたが、このことに関してはまだまだ諦めていません。試行錯誤を楽しめているうちは諦めるつもりはない。可能性を探るのは楽しいし、好きです。この経験が誰かの役に立つかもしれないですしね。
肉体的なことであれ、精神的なことであれ、「成長する」って嬉しいしおもしろい。そのためには自分の成長に気づけないとね。もしくは自分の成長を見て伝えてくれる人が近くにいてくれるといいですね。
この写真、草むしりのビフォーじゃないです。アフターです。そう思えない人は、小林のチャリを見ててください。小林のチャリ、カッコいいですね。