さるべき業縁のもよおせば
今日の写真、スタジオ玄関のすぐ横で見つけました。普段はここに水は溜まっていないのですが、先日の大雨でこの有り様です。初めて見て、とても綺麗だったので写真に収めました。
今晩のマイソールで玄関から誰かが入ってきた音がしたんだけど、スタジオには入ってこなくて、何か独り言っぽい声が聞こえたんです。その後しばらくして入ってきたのは、いつものYさんでした。何だかちょっと気恥ずかしそうな表情と態度で、
「ウェアを全部忘れた」
と。笑
あるある。そういうことあります。なのでスタジオにはそういう方のために上下レンタル用をご用意しております。
S,M,Lすべてはありませんが、用意していたものが上下共にちょうどフィットしたので、私服でアシュタンガというオモロい光景は見られませんでした(ちっ、残念)。
帰りにマットを拭きながら、何ヶ月か前に同じことをしたNちゃんのことを思い出しながら、「自分はそれはやらないだろう思ってた」と笑って話していました。みんなそうですよね。それはしないわー、と思ってたことを自分がやって驚く、ということはたまにあること。
親鸞聖人は言っていたそうです。
「さるべき業縁のもよおせば
如何なるふるまいもすべし」
以前にもブログで紹介したことありますが、あるお坊さんも仰っていました。「状況が揃えば、自分も人を殺してしまうかもしれない」と。親鸞聖人の言っているのも同じように、「縁さえくれば、私だってどんなことでもやってしまうだろう」というようなことですね。
現代のネット社会では、何か過ちを犯すと、袋叩きにあいます。車を暴走させてしまったとか、子供を虐待したとか、不倫をしたとか。犯してしまった罪に対しては、それ相応の批判はあって然るべきでしょう。ですが、必要以上にその人のことを吊し上げるのは違うと思います。おそらく、自分はそんなことは絶対にしないと過信しているのでしょう。車を暴走させた人は、その日の朝、自分がそんなことをすると想像したでしょうか。してたら運転しませんよね。そんなこと誰も思っていないはずです。
自分は絶対にやらない。確かにやらないかもしれませんが、状況さえ揃ってしまえば、そういう縁(良いも悪いも含めて)がきてしまえば、自分だってやってもおかしくない。それくらいに考えておくくらいが丁度良いのではないでしょうか。
厳しく自分を律する修行を積んできた親鸞聖人でさえ、その自覚があるのです。僕ら超絶凡人がその心の準備をしておかなくてどうしますか。その心持ちさえあれば、少しやさしい目線で社会を見られるのではないかと思います。
ウェア、忘れてもいいよ!貸すから。
人によってはパッツパツになるかもしれんけどね!