馬鹿になれ

2022/12/21 ブログ
昔の窓ガラス

数日前の就寝前に、国語専門塾みがく代表坂本さんのブログの『馬鹿になれ』を読んで、そのことについて考えました。それから寝たんです。そしたら、夢でプロレス道場に弟子入りしてまして、もうアホかってくらいに腕立てをやらされました。僕の腕は馬鹿になりました。

 

そういうことじゃない。

 

 

 

『アーサナ、かくあるべし』みたいなものがあると、人を見るときに僕は減点法で見てしまいます。もちろん加点法でも見れますよね。「あれ良し、これ良し」という具合に。だけど僕ってヤツは、「あそこをこうできたらベターやな」って、できていないところに目が行ってしまいます。そういう視点でのアドバイスが、その人の助けになる場合があるのも確かです。だけど僕は、もっと「いいね〜」って気持ちで見ていたいんです。

 

その邪魔をするものが、「かくあるべし思考」です。僕は頭が固いので、本当は「そんなこと気にしなくていい」と分かっているのに、まだ以前の「アシュタンガ、かくあるべし」「アーサナ、かくあるべし」に捉われます。

 

誰かが言い出した「こうやるべき」の意味は分かります。だけど、以前のブログでも書いたように、その意味を理解した上で、そうじゃなくてもいい(そうであってもいいですけどね)と思っているなら、それを信じてやればいいのにね。

 

これは僕だけの問題でもないと思います。なんとなくヨガ界全体が、「アーサナはこうやるものだよね」にあまりに捉われているように感じます。それが正しい、と。なんだったら、そのやり方のみが正しい、と。それもひとつの正しさだとは思うけど、それを全てに適用せんでもいいやん。

 

たまに、「今日はもうそういうこと気にしない!」と腹を括ることがあります。ただ、助けが必要な人を手伝うことに徹する。そして、ときどきアドバイス。そういうとき、僕はすごく自由を感じます。みんなの練習をすごく穏やかな気持ちで見守れる。何よりも、みんなの練習がすごく素晴らしいものに見えてくる。本当に。加点、加点、加点ばっかりです。

 

なのに、また戻ってしまう。理由のひとつは、「みんなはそういう指導を期待しているんじゃないかな」「よそのスタジオで練習して、いっぱいアジャストされると、普段の自分の練習が間違ったことをしているかのように感じてしまうのではないかな」という気持ちです。この気持ちは如何ともし難いなぁ。

 

 

「こうやるべし」は、自分を守ってくれたり、より良い方向に導いてくれることがあるのは確かです。だけど、理解のないままにそれに縛られすぎると、ずっと囲われたところから出られないし、失敗すらさせてもらえない。間違えて、失敗して、それに対処していく力をこそ身につけられたらいいと思っています。

 

自分はもっと馬鹿になった方がいいし、いまのヨガの世界も、もっと馬鹿になった方がいいと思う。

 

 

馬鹿になれ。