楽譜通りに
アシュタンガヨガを「動く瞑想」と言い出したの、一体誰なんでしょう。ご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。パタビジョイス氏やシャラート氏が言ったとは思えないなぁ。なんか欧米人が言い出してそう(勝手な先入観)。
どなたが言い出したことかは知りませんが、僕はその響きに影響を受けた一人です。そんなことが可能なのか。アシュタンガヨガを始めたきっかけの一つは、先日書いた「カッコいい」という憧れですが、瞑想になり得るのかを確かめたいと思ったのも、理由の一つです。
そこで今日は、もしそれが可能になるなら、どのように実践すべきなのか、僕が常々持っているイメージを書こうと思います。
結論から書くと、「リサイタルとしてではなく、1つの曲として」ということです。説明します。
ピアノのリサイタルがあったとします。ピアニストが、「はいどーもー」って出てきて、その日に予定している曲を順番に演奏します。曲と曲の間では拍手を受けたりして「あざますー」って頭下げたりして。水分補給とかもするのでしょうか(行ったことないので知りません)。休憩もあるのかな?
このリサイタル全体の流れのようなアシュタンガヨガの練習では、週に6日で何年続けようと、動く瞑想にはなり得ないと思います。
アシュタンガヨガの本がありますよね。何年か前に日本語版の『ASTANGA YOGA ANUSTHANA』が出ました。あの本には現代のプライマリーシリーズのヴィンヤサが明記されています。ピアノに例えて言うなら、あの本に書かれていることは、1つの曲の楽譜みたいなことだと思うんです。呼吸の一つ一つが、音符みたいなものです。その通りに弾くんです。本当にピアノのことを言うなら、その通りに弾くだけではないのでしょうけどね。
アシュタンガヨガでは、最初のうちは楽譜通りに進めることなんてできないですが、そのように努めることだと考えます。
リサイタルでピアニストが、曲の演奏中に、一旦手を止めてドレスの裾を直したり、汗を拭いたり、「ここから先、ちょっと難しいパートに入りますんで、気合い入れさせてください」と指のストレッチしたり、そんなことしませんよね。
もし、プライマリーなり、インターミェディエート、アドバンスなりのシリーズを、1つのものとして行うとすれば(動く瞑想としての話なので)、楽譜にない呼吸も動作も入れるべきではありません。ピアニストが1つの曲を弾き切るように、やり切る練習をしないと。仮にミスタッチがあったとしても、終わったことに心を留めないで、苦手なパートが近づいてきても、先のことにも心を向けないで、いま取り組んでいることに集中する。
もちろんピアニストだって日常の練習では、苦手なパートだけを練習することがあるでしょう。だけど、最終的には1つの曲を弾き切ってこそ、じゃないでしょうか。
楽譜通りにアシュタンガヨガをするって、至難の業です。しかもただやることが目的ではなくて、心の働きを鎮めることが目的なので、リズムが速くなったり遅くなったりしてたら心は落ち着かないでしょう。ある程度一定のリズムで淡々と。
もうそれ、普通に座って瞑想の練習した方がいいんじゃない?僕はそう思います。
だけど、それに魅了されちゃったんですもん。ただ座ってるより、アーサナしながら集中した方がおもしろいんだもん。しょうがない。可能かどうかはどっちでもいいんです。トリスターナを駆使して、全部は無理でもできる限りやってやる!って気持ちです。
そもそも「動く瞑想」なんて信じてないし、そこに惹かれてアシュタンガやってないから、というのであれば、それはそれで全然いいと思うし、思うように練習したらいいと思います。僕ももう最近は「余計な呼吸を入れないで」とか「そんな動きは要らない」とかほとんど言わなくなりました。言われなくてもやりたい人はやるし、興味ない人はやらない。それだけだと思うようになったので。
今日も、僕はこう思います、というだけの話で、そうした方がいいと強要するものではありません。どうぞご安心を。