言語化しないぞ

2025/01/19 ブログ
朝焼けってほどじゃないけど

しばらく前から、夜にマインドフルネス瞑想をやっています。本棚の整理をしたときに、おそらく10年以上前に買い、一読して置いておいた本を見つけたのがきっかけです。

 

やってみると、おもしろいことに気づきました。これは僕だけかもしれないのですが、身体で感じたことを、頭で言語化する癖がついていたのです。

 

「後頭部の下が緊張してる…」

「頭の左側が重たい感じがする…」

「まだコントロールしようとしてるな…」

 

みたいに。あらゆる感じたことを言語化しているみたいなんです。んー、なんかちょっとこれ嫌だな、と思いました。ヨガ講師としての自分が強くなり過ぎてるのかな。感じたことを伝えようとするあまり、全部を言葉に置き換えようと努めているみたい。

 

ヨガ講師としての自分とは別に、一人の練習生として、感じたことは感じたままに受け取りたい。そんなふうに思って練習していたら、最近ようやく言語化することが少なくなりました。

 

僕は瞑想の練習をするとき、何かを意識的にコントロールするのではなく、ただ感じたことをそのまま受け取り、最終的には「ただそこにいる」状態になりたいと思っています。

 

座って瞑想の練習をしているわけですから、その姿勢は維持しなくてはいけない。それは姿勢のコントロールなんじゃないか、と思われるかもしれませんが、最初はそうなんだと思います。姿勢を維持するコントロール・努力が必要です。ですが、慣れてしまえば、それはもはや努力ではなくなるのは、やっている方には周知の事実。

 

ということは、アーサナも同じか?と思ったんです(そもそもアーサナって座法のことだしね)。慣れ親しんだアーサナには努力は必要ありません。コントロールも最小限でできる(なにをもって「できる」と判断するかはヨガによって変わるでしょう)。そういうマインドフルネス的な練習をするようになり、まず感じたことは「なにこれ心地いいー!」でした。

 

クラスで話したことです。スタジオのストーブをイメージしてください。部屋の温度が15℃だったとして、ストーブで25℃まで室温を上げようとしたら、めっちゃ灯油を燃やしますよね。がんばって25℃にしようとする。だけど、一旦25℃まで上がってしまったら、それを維持するために使う灯油は僅かでいいはずです。

 

アーサナもそれと同じで、その姿勢に身体を動かすところまでは筋力を使ったとしても、それを維持するのに同じ力が必要だとは限らない。もっと抜いていい力はあると思います。力を抜いて、最低限の努力とコントロールでその場にその姿勢で、ただいる。そしてその自分を観察する。そんな省エネなアーサナの練習が、僕はとても良いと感じている今日この頃です。