本音を言えば。

2025/05/17 ブログ
シーズン突入

ビーサンは早かったですか?

早くないですよね?

ですよね。

 

 

 

最近改めて意識していることは「呼気と共に」です。またかよ、とうんざりされそうですが、やっぱりこれはいいなぁとつくづく思うのです。

 

僕の言う「呼吸と共に」を具体的に書きます。

例えば太陽礼拝をします。

吸いながら手を上げる。吐きながら手を下ろし前屈。この単純な動作における「呼吸と共に」は、「息を吸っている間だけ手を上げて伸びる動作をする」「息を吐いている間だけ前屈をする」です。

 

いや、それ普通でしょ、と思うでしょう。だけど、多くの人は違います。息を吸い終えて、もう吸えていないのに伸びようとしているし、息を吐き終えて、もう吐けるものがないのに前屈を深めようとする。それ以降のことを考えても、だいたいそうです。チャトランガはしんどいから吐き終えないままで止めて、吸えるものがないけどアップドッグーーーって伸び続け、吐かずに息を止めたままダウンドッグになり、そこでプシューっと吐く。息を止めながらジャンプして、最後にちょこっと吸って、吸えてないから吐くものもないままに短い前屈。吸えないけど伸び続けて。吐いてサマスティティヒ。

太陽礼拝Bは言わずもがな。その後に続くすべての動作が同じだと言えるでしょう。

 

そうなるのは、動作にばかり意識があり、深めることへの執着が強いので、呼吸がどうなっていようが関係ないのです。ヨガは呼吸だよね、とは言いつつ、筋肉、筋力、力づくです。

 

動作で身体を痛めてしまうことはよくあるので、慎重にやった方がいいことが、それぞれの人にあると思います。だから呼吸を止めなくてはいけないくらい動作に集中することはあるでしょう。だけど、いつまでもそればかり追い求めてもねぇ。

 

こうなってしまうのには、僕に原因があることは分かっています。それは今まで身体のことを言い過ぎたことです。求められていることはそれなんだろうなぁと、そんなことばかりを言い過ぎた。だからこそ思い続けているんです。少し前のブログで書いた北区でスタジオをやっていた先生の、あの教え方が本当はとても素晴らしいのだと。求められることを教えないからスタジオがなくなってしまったのかどうかは知りません。なくなってしまったけど、あれは良かった。

 

 

もう一つ。アシュタンガヨガはそうなりがちなんだな、と思うのは、やることが決まっているので、おそらく、「ルーティンを終わらせよう」としてしまうこと。「さっさと済ませる」とも言える。「本当にチャレンジしたいアーサナまでは、ささっと片づける」。そりゃあ、呼吸なんて蔑ろにされますよね。吐き終えずに次の動作にいくし、吸い終えていないのに吐く動作に向かう。呼吸が止まっていてもお構いなし。意識は今になく、先へ、未来へ。それでヨガをしていると言えるでしょうか?

 

 

とまぁ厳しめに書いたところで、他人の価値観など変えられないことは分かっています。人それぞれやりたいことはあるよね、なんて緩いことばっかり書いて、ハッキリ物申すことをしていなかったので、久しぶりに本音を書いてみました。

 

執着心が身体を壊すことを身をもって実感しているので一応伝えてみました。だけどコレって同じことだなぁと思うのは、先進国と言われる国々が、成長段階のときはガンガン石油燃やしまくってやってきたくせに、自分らの成長が落ち着いた途端、今現在成長しようとしている国々に対して、「地球が温暖化するから石油をガンガン燃やして国を発展させるのはやめようぜ」って言ってるようなもの。それは正しいのかもしれないけど、今から成長したい側としては受け入れづらいことかもしれない。それを分かっているからこそ、一応経験談として、そのままのやり方を続けていくとこの先つらい思いをするかもよ、と伝えてはおくけど、強制はしないよという態度です。

 

 

ではまた。