遊ぶのだ。
火曜のヨルマイソールで、ウルドヴァ・ダヌラーサナからカムアップしようとがんばるY氏。最近は8〜9割の確率で起き上がれているけど、その日は苦戦していた。そして何度目かのチャレンジがうまくいかなかったとき、小声の若干早口で一気にこう言った。
「おきあがれるきがしないきょうは」
ツボにハマった。心の声が全部出てもうてる。咄嗟に出た言葉なのに倒置法やし。強調してきたで。笑いを堪えた自分偉い。
今日のアサマイソール後に、上記のY氏と、社畜という言葉を教えてくれたO氏と共に話していました。アーサナとは遊びだと思うと言うと、2人からは「いやいやいやいや、こんなしんどいの遊びじゃないでしょ」と反論を受けました。でも僕はやっぱり思うんです。しんどいかどうかは、遊びであるかどうかの判断には関係ないと。
例えば遊びでサッカーをやっても、めっちゃしんどいし、昨日6〜7年ぶりに来てくれたご夫婦の遊びはロードレース(自転車)なんですけど、これもめっちゃめちゃしんどいです。アーサナなんか比べ物にならないくらいに。僕の思う遊びとは、好奇心を持って取り組むこと全般です。だから、アーサナであろうが、プラーナーヤーマであろうが、メディテーションであろうが、全部遊びです。それくらいの気持ちで取り組めばいいと思っています。
アシュタンガヨガには決まりごとがありますが(それは他の遊びでも同じ)、その決まりごとは守らなければならないものでもない。先人がこうやるといいよ、とアドバイスしてくれているだけで、守っても守らなくてもどっちでもいい。「アシュタンガヨガの極み」みたいなものを目指すのであれば、それは型として守った方が修行としては進みやすいと思うけど、多くの人はそこ目指してやってないでしょ?
心身を整えるためにやりたい人は、ゆっくり自分のペースで練習したらいいし、毎日のルーティンとしてやるなら、サクサク進めて練習を終えてもいい。カロリー消費を多くしたければたくさんアーサナを練習すればいいし、身体の開拓を目指すなら、それを目一杯意識してやってもいい。疲れているなら少ないアーサナで終えてもいい。順番を間違えても、アーサナを飛ばしてしまっても気にしなくていい。何だっていいんですよ。あなたのためのヨガなんだから。
以前の僕はもっと生真面目で許容範囲が狭かったから、そんなんアシュタンガじゃねーよ!と、厳しく型通りに練習することを強要しました。それはほんとのアシュタンガヨガを目指したい人には良かったかもだけど、もうちょっとライトに取り組みたい人には、厳し過ぎたと思う。
こういうことを書くと、遊びだなんてとんでもない。ヨガとは生き方です!と仰る方もおられるでしょう。もちろんそのようにヨガをしてもいいと思うんです。だけどそれを遊ぶように取り組んでいけないわけじゃない。
マットの上と、マットの外で、という表現はよく見ますし、僕も以前はカッコつけて書いたこともあるんですけど、どっちかと言えば、マットの外の方が大事ですよね。ヨガのいろんなありがたき教え、みたいなものはありますが、マット外でそれらを本気で実践しているなら、マットの上で殊更に意識しなくても自然とそうなるはずです。逆もまた然りだけど、マットの上の時間は日常に比べたらほんの僅かですからね。だからアーサナの練習をそんなに特別なこととして扱わなくていいと僕は思う。
意識を向ける。
何かに気づく。
何かのアクションを起こす、あるいは起こさない。
もう少しヨガをヨガとして取り組みたいのであれば、これらを繰り返し、何度でも、あらゆる状況で、できれば常に、実践できればいいんじゃないかな。その気づくこと、行動を起こすこと(起こさないこと)の基準となるものがヨガの教えであれば、それをヨガと呼ぶし、仏教の教えであれば、仏教徒なのかもしれない。何と呼んだっていいんだ、そんなのは。
ただ自分のためになると思うこと、やりたいことをやればいい。気楽に、遊ぶように。義務感じゃつまらないよ。
「上がれる気がしない今日は!」
って言えるのは、遊び心があるからだ。そんなことを咄嗟に口走れるのも、それを笑ってもらえるスタジオも、きっと良いスタジオだ。自画自賛。
遊べーっ!